f/22

作り手によるドキュメンタリー批評

『童貞。をプロデュース』問題

『童貞。をプロデュース』問題になぜこだわるのか

f/22編集長 満若勇咲

※4月30日 加筆修正しました。

f/22が松江哲明監督に抗議声明を出して3カ月が経とうとしている。未だに『童貞。をプロデュース』問題に関心を持ち続けている人はあまりいないだろう。しかし問題はまだ解決していない。そこでf/22は加賀賢三さんと直井卓俊さんとの対談記事を公開することに決めた。記事公開の経緯ついてはこちらを一読いただきたい。

昨年、僕はf/22の編集長として加賀さんにインタビューを行い、年末の対談にも参加した。今回の公開にあたり、なぜ僕がこの問題に拘り、どのような問題意識で臨んでいるのかをはっきりとさせておこう。

『童貞。をプロデュース』問題のあらましは、『f/22』第2号、及びウェブサイトの記事を参照頂きたい。

作り手の“失敗”

2017年、『童貞。をプロデュース』10周年記念上映の舞台挨拶で、出演者の加賀賢三さんが起こした騒動に端を発したこの問題は、これまで男性への性暴力の文脈で語られてきた。性暴力の観点からはf/22編集員・川上さんの論考を一読いただきたい。

その上で、僕は松江さんと同じ作り手である以上あえて作り手の立場からこの問題に向き合いたい。(もちろん一番気の毒なのは被害者の加賀さんである)

この『童貞。を~』問題は、加賀賢三さんと“映画を上映しつづける関係性”を築けなかった(もしくは築かなかった)松江さんの“失敗”だったと僕は考えている。そして未だに問題が解決しないのは、松江さんが“失敗”から目を背け続けているからだ。

セーフワードが存在していて強要ではないとか、映画の上映に加賀さんも乗り気だったとか、松江さんの言い分もあるだろうが、問題の本質はそこではない。3年前の騒動が“起きてしまった”ことが問題なのだ。

極端な話、被写体が渋々であれ納得しているのであれば例えそれがどんな内容であろうと「制作上の同意」とみなされるのが一般的な認識だと思う。僕自身、『童貞。を~』は好きな映画ではなかったが、加賀さんは渋々であれ同意(もしくは泣き寝入り)していたものと思っていた。

被写体に「嫌だ」と訴えられることは松江さんのケースだけではない。僕だって経験したことがある。これが、僕がこの問題をあえて“作り手の失敗”として考える理由だ。

だから、本当は僕がここで語るのではなく、松江さんに話を訊きてみたい。それも最早かなわないのだけれど。

自分の経験

少し話が脱線するが、僕自身の失敗について話したい。大学生時代、兵庫県の屠畜場を舞台にした『にくのひと』というドキュメンタリー映画を作った。映画は予想以上に評価され、各地での上映を経たのちに劇場公開が決まった。だけど、直後に運動団体から映画の内容にクレームが入った。さらに運動団体と揉めたことで、被写体となった青年にプレッシャーがかかってしまい、その地域で生きる彼の人間関係をかき乱してしまった。

結局、被写体の青年から「映画には関わりたくない」と言われ、僕は劇場公開を中止し映画は封印することになった。この揉め事の経緯は『ふしぎな部落問題』(角岡伸彦 著)に詳しく書いてあるので興味のある方はそちらを読んでいただければと思う。

この時、僕は運動団体のクレームも、被写体である彼の願いも無視して、「編集権は制作者にある」として強引に上映をすることもできた。でも強行しなかったのは、正確に言えば出来なかったのは、被写体の協力の下で公開しなければ”屠場を知ってもらう”という作品のコンセプトが失われると考えたからだ。

「被写体の為に作品を取り下げる」

聞こえ方はカッコいいけれど、正直なところ監督としての自分を慰める言い訳でしかない。胸に手を当ててみれば、今でも作品を封印したことを後悔している自分もいる。

だから僕は『童貞。を~』を取り下げる事が出来なかった松江さんの、その気持ち、そのエゴは理解できる。でも被写体という生身の相手がいる以上、そうはいかない。

僕が運動団体から言われた「この映画を公開して、仮に何か起きたときに責任を取れるのか?取れないだろ」という言葉は今でも頭を離れない。彼らの言い分には納得していないし、不当だったと今でも思う。しかし「責任」について考えた時、作り手が撮ったことへの責任を本当に取れるのだろうか?そんなの無理じゃないのか?そんな疑いが生まれた。

今思うと、単に僕の脇が甘かっただけのことでしかない。揉め事を回避する道はいくらでもあった。だから僕もまた“失敗”した一人なのだ。

この経験から、“被写体”は僕にとってドキュメンタリーを作る上で逃れえない大きなテーマの一つとなった。だから僕は『童貞。を~』問題が他人事とは思えない。

ドキュメンタリーを作る上での性暴力

公開当時、僕は『童貞。を~』を見てとても嫌な気分になった。映画の抑圧的な雰囲気が、自分の嫌な過去を想起させたからだ。でもそういった経験がなければゲラゲラ笑って映画を受け入れていたに違いない。

『童貞。を~』は、もともと加賀さんとの約束で、ガンダーラ映画祭限定の作品だった。もしそこで上映が終わっていれば、このような問題にはならなかったはすだ。松江さんが加賀さんとの約束を反故にして上映を続けた背景には、「面白い!」という観客の声があったからに他ならない。

この問題が起きた後に、『童貞。を~』を面白いと言っていた観客が「今はそう思ったことを後悔している」という話を聞く。僕は彼らが面白いと思った気持ちは間違ってはいないと思う。だからこそ、なぜそこまで面白いと思ったのか?を検証すべきだ。(このあたりは批評家の方たちの仕事だと思うので、ぜひ論じて頂きたい。)

劇中、一番の問題となった加賀さんへの性的強要(当時だと童貞イジリと表現するのが妥当かもしれない)シーンは、単純に加賀さんを嘲笑するように露悪的には構成されていない。全編を通して、如何に面白く見せるか、という発想で編集されている。だからこの話は作り手にとって非常に面倒な問題なのだ。

一例として問題の性強要のシーンを挙げてみよう。この場面構成は非常に単純かつ分かりやすい。

1)松江さんがAV女優との絡みを嫌がる加賀さんを外に連れ出し、嫌がる理由を聞くと「AV女優がキレイだと思えない」と発言。松江さんが加賀さんをビンタする。

2)それでも嫌がる加賀さんに対してなし崩し的に撮影が再開。この段階では、口淫されるフリを撮影するという設定だった。

3)ところが実際に口淫されそうになり、加賀さんが嫌がる。加賀さんは羽交い絞めにされて、口淫される。

4)撮影終了後、加賀さんはカンパニー松尾さんに「ありがとうございました」と言って、握手をする。

という流れになっている。

この一連のシーンでは、嫌がる加賀さんに「AV女優がキレイとは思えない」と言わせることで、観客の反感を買わせて、物語上は加賀さんが悪役となる。そして、「汚いと思っているAV女優」に加賀さんを性的接触させることによって懲らしめる、という構成になっている。

もし3)で、このシーンが終わっていたら、映画の後味はあまり良くないだろう。しかし、4)が続くことで、これまでの強要が加賀さんにとっても良い経験になったかの様に観客は受け止めるのだ。

こうして、加賀さんの実際の心情とは別に、松江さんの手によって悪役となった加賀さんがAV女優との絡みを通して禊をした、という物語に構成されている。

ここでポイントなのは「AV女優がキレイとは思えない」と言わせたことだ。松江さんは現場で加賀さんがここまで嫌がるとは想定していなかったように思う。そこで咄嗟に、加賀さんを悪役に仕立て上げるプランを思いついたのであれば、その思考の瞬発力はやはり“才能”と言えるだろう。そして、加賀さんを悪役にした以上は、どこかでお仕置きが必要なのだ。

この問題がネット上で話題になった際に、性暴力問題の文脈で語られる事が多かった。しかし、性暴力が行われた背景を松江さん側からみると、己の性欲や支配欲を満たすために性暴力を働いたハーヴィー・ワインスタイン、性暴力を告発された広河隆一、山口敬之らの事件とは、少し違うことが分かる。すべては“面白い映画をなんとかして作りたい”というエゴから生まれたアイディアだ。その気持ちはよく分かる。だから僕たちにとっても厄介な問題なのだ。

3年前の騒動後、多くの作り手たちがこの問題に口をつぐんでしまったのは、松江さんと共通する部分を自分の中に見出してどこか居心地の悪さを感じたからではないだろうか。だからこそ、森達也さんは敢えて「松江哲明は僕自身である」と言ったのだろう。

※読者から山口敬之氏は犯罪者ではないのでは?との指摘があったので追記します。
山口氏は、伊東詩織氏に対する準強姦容疑で告訴されましたが、不起訴処分になり、その後の検察審査会でも不起訴相当と判断された為、正確には犯罪者ではありません。しかし、昨年12月に東京地裁は山口氏による性暴力を認定しました。山口氏は控訴し、現在係争中です。

「松江哲明は僕たちである」

1月20日に行われたf/22のイベントで、ゲストとして森達也さんに登壇していただいた。その時、森さんは「松江哲明は僕たちである」と発言した。話の流れとしては、司会から話を振られて、f/22が『童貞。を~』を取り上げる理由について「僕たちは明日の松江さんになるかもしれない。だからこの問題を考える」と説明した僕の意見に対しての発言だったように記憶している。

森さんの言いたいことは分かる。どんなに被写体に敬意を払っていたとしても、突き詰めれば己のエゴの為に他者をダシにするという構造から作り手は抜け出すことはできない。カメラが寄り添うとか、たたずむとか、そんなの幻想だ。そう生易しいものではないぞ、という森さんらしい警告だったのかもしれない。

だけど、今回の問題が語られる中で、あまりにも作り手の「加害性」という側面が強調され過ぎているような気がする。撮る者と撮られる者の関係はあくまで非対称的なだけであって、それは初めから加害/被害という構図ではない。だから、純粋に面白い映画を作りたかった松江さんには加害意識が欠落している。

では、撮る者と撮られる者は何が違うのか?それは、被写体は撮られた己の姿を自分の言葉で語り直すことが出来ないという点だ。

松江 でも加賀君もお客さんと出会えばきっといいはずだ、みたいな気持ちがあったんだよね。

加賀 いや、嫌でしたよ。それこそ笑ってる人たちも嫌でしたし、もっと言えば、面白かったです、感動しました、みたいに言われるのも嫌でした。

松江 いやだったか、そっか。

「加賀氏と松江氏の対談 テープ起こし」

本来であれば共同制作者として編集時に己を語り直す権利を加賀さんは持っていたはずだった。しかし、被写体として自分で語るべき言葉を奪われた結果、加賀さんは被害者となってしまった。加賀さんのように、他人からさも真実かのように面白おかしく語られることほど残酷なことはない。だが、松江さんはそこに気づかなかった。

もし、加賀さんとの約束通りにガンダーラ映画祭で上映を止めておけば、性的強要という事実はあったものの、ここまで問題がこじれることは無かっただろう。

松江 映画が大きく広がる機会に、加賀君も乗ってほしいって思ってたんだよ。

加賀 いや僕はそれを望んでなかった。

松江 望んでなかったわけだよね。でも僕は作り手として望んでないわけないだろうって気持ちが当時あった。うん。こんなふうに広がる映画は滅多にあるものじゃないっていうのが、あの当時映画をやって十年くらいだったけど、こんなふうに広がってるチャンスに、加賀君が一緒に乗らないのが不思議だった。だから、君の意思を無視してまでも、これは良いことなんだっていうふうに、

加賀 つまり自分の価値観になかでしか想像が及ばなかったってことですね

「加賀氏と松江氏の対談 テープ起こし」

松江さんがすべきだったのは加賀さんに全て演出だったことを説明して、ガンダーラ映画祭以降も上映することをどうにか納得してもらうことであって、「面白い作品の方が被写体の為になる」という作り手の思いを押し付けることではない。(松江さんの考えはよくわかるし、ある一面では真実でもある。被写体の自己陶酔したドキュメンタリーは面白くないし、面白くないという評価は巡り巡って被写体への評価にもつながる。)

結局は、どこを落としどころにするのか、という問題だ。「作り手は松江さん同様に罪深い」という答えは、あまりにもドキュメンタリー制作を単純化しすぎではないかと思う。だから僕は、森さんに応えてもう一度「松江さんは僕の可能性の一つだ」と言っておきたい。

体を裏切る方法論『主場』

最後にもう一つ。僕がこの問題と根源的な部分がつながっていると考える作品に話を拡大しておきたい。話が飛躍するので、僕が指摘するのはあくまでも、作り手と被写体の関係性についてだ。この問題を考えるうえでの参考になると思う。松江さんだけの問題ではないことを今一度確認しておきたい。

『童貞。を~』と同様に、撮る者/撮られる者の問題を孕んでいるのは、慰安婦問題を扱ったドキュメンタリー映画『主戦場』だ。周知のとおりだと思うが、出演した右派の論客たち数人が、映画の上映禁止と損害賠償を求めて、昨年東京地裁に提訴した。

僕はこの映画に対して、右派の論客を理屈で真っ向から批判するのではなく観客に「敵」という前提で笑いものにするような編集と、取材を受たことに対する彼らへの敬意の薄さに『童貞。を~』と同じ様にイヤな感じを覚えた。実際、劇場では彼らへの嘲笑がたびたび起きていた。この嘲笑と『童貞。を~』で「敵」に設定された加賀さんへの嘲笑が同質でないと本当に言えるだろうか?上映禁止にすべきだとは思わないけれども、被写体である右派の論客が訴訟を起こした心情を理解はできる。

右派に対する監督の対応を見る限り、はじめから裏切るつもりでいたのだろう。もちろんこういう裏切る付き合い方も方法としてはありうるし、否定はできない。ある意味筋は通っている。

でも、こういった方法が増えていくと、きっとドキュメンタリーに出演できるのは作り手と同じような思想・信条を持つ被写体だけになってしまう。そんなドキュメンタリーは面白くもないし、作りたくない。

撮る事/撮られる事が一般化した今の時代、たとえどんなに軽蔑している相手でも、被写体となる覚悟をしてもらった以上は最低限の敬意が必要ではないのか。そんなことを考えさせられた。

最後に

松江さんは失敗した。でも本人が認めてない以上、誰かがその失敗を語りつづける必要がある。でなければ、13年も前に起きたドキュメンタリー映画の制作における男性への性被害に対して誰も興味をもたないという現実の前に、この問題は一瞬で風化してしまう。

たしかに作り手にとって、なかなか語りにくい問題ではある。でも、たとえどんなに批判が出ようとも己の意見を述べることが大事ではないかと思う。僕やf/22を批判したり、松江さんを擁護する意見だってあればいいし、むしろ聞いてみたい。

もちろん加賀さんは不愉快に感じるかもしれない。だけれど、3年前に加賀さんが腹をくくって起こした事件は、自らを議論の種として社会に提供したという意味でもある。だからどんな意見であれ、結果的に加賀さんが傷つくかもしれないとしても、ただ黙っていることこそが彼への最大の侮辱になると思う。

f/22というタイトルはパンフォーカスを意味している。背景も主題も前景にも、すべてにピントがあっているという事は、全ての事象が並列化されている状態だ。f/22編集部内でも、それぞれ意見は違うけれどそれを統一はしていない。

だからもし何かを語りたいのであれば、ぜひf/22を利用して欲しい。その為に作った場でもあるのだから。

追記

直井さんに関してここで言及していないのは、僕にとって語るべきことが存在しないからだ。唯一言えることは、対談した時に約束した「継続した名誉回復・権利回復」に一刻も早く努めるべきだ、ということ。もし約束を反故にするのであれば、この問題を解決する気がないのは誰なのかハッキリするだろう。